人形芝居の発祥は
資料が少なくて、みんなわかんなくて困っているですが、ひとつ考えられることは、「神事」じゃないかということですね。日本で発祥したということからすると。
もうひとつの形として、芸能的、根源的なことからすると、これは外来じゃないかということも考えられるんですね。つまり「散楽」じゃないかと。
また、外来民族は、軽業とかを持ち込んで、技芸を持ち込んだわけです。
日本では、伎楽とか雅楽とか、芸能性の高いものは当時高貴な人たちが採り入れ、取り組むことができたわけですが、軽業とかはそうではなくて、そのまま散っていった運命にあったわけで、それがあちこちに流れて、住み着く土地もなく、見せても住み着く土地がなく、耕す畑がないわけですから、どうしても流れていかざるを得ないわけです。
そのように、芸能といったものは、流れていって、いつか定着できる土地を見つけて、結びついて、そして、その安住の地が在ることによって、そこから、芸術性を持つようになったような気がするんですね。
現存する人形芝居は
人形の方で一番古いんじゃないかと言われているのが、九州大分の「宇佐八幡」に残っています「傀儡人形」っていうのがあるんですね。
ここでは、「相撲人形」といって、相撲をやらせるんですね。これがいちばん古いんじゃないかと。文献に残っているわけではないんですが、言い伝えで、1200年前じゃないかと。9世紀ですね。
これは手遣い人形で、棒人形です。相撲ですから東西に分かれて12体ずつあるんですね。12体というのがなぜ決められたのか、ちょっと分からないのですが。
どのように支えているかというと、右足か左足が胴までくっついているんです。頭(かしら)と胴体と片足が一本の棒で、それで両手と片足が動くようになっているんです。
で、相撲だからその褌(ふんどし)してるんですね。それで頭が角髪(みずら)といって、マゲが結ってあるんです。これが12体ずつあって、最終的には東が勝つようになっているんですね。色々大小があって、太鼓に合わせたり、ぶつかり合う。
音楽は笛ですね。相撲のときだけは太鼓ですね。その前の芝居みたいなものは、笛とチャッパと太鼓でやるんです。
どんな由来があると
この芝居では、まず宇佐八幡宮で、原住民である薩摩隼人、薩摩族が大和朝廷に氾濫を起こして、大和朝廷がこれを治めに船に乗ってやってくるんですね。そのときに船先案内をしたのが、宇佐八幡の人たちということになっています。
朝廷の方は沢山行けないから船を買ってくるんですが、そのとき土地の案内をしたのが宇佐八幡ということになります。薩摩隼人たちは獰猛で強かったわけで、そこで陸からではなく、海上から攻めてやろうということで、船に乗って薩摩族が陣を築いている傍まで行って、「船上伎楽」というものをやって、彼らを懐柔してしまったわけです。
つまり男と女の人形を出してきて卑猥な芝居をやったわけですね。それを見て薩摩隼人たちがワーッと喜んでしまって、その間に、大和民族が攻め込んでしまい、征服してしまったということですね。その時に、首を取ってきて埋めたところが宇佐八幡の中にある首塚なんですね。
ところが、その祟りが出てきてしまって、それを何とか鎮めようというんで、生きた貝や魚や亀や鳥を捕まえてきて海に放して、死んでいった薩摩隼人の霊を慰めるようになったんですね。これが「放生会(ほうじょうえ)」です。
その後、4年に1回うるう年の年に放生会をやって、船で行って、貝や魚を放して、魂を慰め、それでなぜか知らないのですが、船の上で伎楽をやる。神の人形を出して、流すんですが、神主さんがそれをやるんですね。
それにつながるのが「古要宮(こひょうぐう)」で、宇佐八幡宮の真下で行われます。そして、相撲人形の前に行われるのが「細男舞(せいのおまい)」です。つまり船先案内をした細男(せいのう)で、これが神様なんですね。
これは、海の底にいる細男を呼び出して、顔や体に貝殻が体にくっついて醜いため、出てくるのが嫌だという。そこで音楽で囃して呼び出す。そうすると細男は布を付けて顔を見せないで出てきて、大和朝廷の水先案内になって薩摩隼人をやっつけた、というわけです。
これを相撲人形の前にやるんです。細男を呼び出すところで、太鼓をたたいたり、チャッパを売ったり、呼び出しの儀式をやっておいて、相撲人形が始まります。今なお細男を呼び出すときには神を顔にくっつけて出てくるんですね。これを見るとばちが当たるとか、言ってね。
相撲芝居はどんなふうに
高幕といって、たとえば文楽などは高幕でやっていたんです。その高幕から人形を突き上げて、芝居をやるんです。人間が見えなかったんですね。これが古い、直接遣いとなるんですね。
その相撲の人形というのが、面白いことに、こちら側の足を抑えて、両手と片足だけが動く。つまり、観客側が見える足だけが動く、ということになります。見えないところが、持てる。
その手と足がね、留めがあって、こう動く。ここに紐が付いているんです。これを引っ張ると、こう動く。それが一つの人形に3本の紐がくっついていて、それで下から引っ張って手足(片足と手)を動かして、相撲を取るわけですね。組むというより体をぶつけ合ったりして。
突っ込みは直接ですね。指人形とおんなじ。いろんな人形があるんですが、直接、頭を持って、動かす。でも相撲人形では表情まではやらない。
相撲はそれ以前からあった訳ですね
相撲人形に入るまでが一つの神事で、細男を呼び出す儀式を見せて、その次に相撲をやる。実際に、相撲っていうのはもともと力を誇示するものですから。力ですね。
手合わせって言いますでしょう。手合わせっていうのは相撲の始まりみたいなもので、かならず手を握り合う。そこで、相手の力が分かる。そこで止めるかやるかで相撲になってくる。
力比べですから、民族の征服は、一番強い男や代表が出てきて、手合わせして、それが相撲に展開していく。ですから、殺されたりするし、命を掛けてやるもんなんですね。
力の強い者に屈服するわけで、武士道とかいうものじゃないんですよ。だから、蹴飛ばすは、相手の肋骨がばらばらになるとか、折れるどころか、砕けるほどやっちゃう。
日本古来のものでしょうか
チャッパなどを使ったりすることからすると外来の流れがあるのでしょうか。
手遣い人形としての流れは分かってない。逆に、その辺から、ある意味、日本の民族の芸能だというのが分かってくる。
日本各地に手遣い、糸操り人形が残っていますが、中でも相撲人形が一番古いわけです。でも、現在残っているのは、神事の人形ではなく、ほとんどが芸の人形です。
神事、宗教と結びついた人形は「神様人形」とか言われますが、相撲人形はその原型にいちばん近いんです。「オシラ様」はその一つですね。
オシラ様は魂降ろしなんです。魂を呼ぶ、イタコが呼び寄せるんですね。これが宗教的になっているのは、イタコが、そのオシラ様を遣って魂を呼ぶわけですが、前儀的なものがあって、それが「栴檀皇女」です。
これは「馬婚姻説」です。長者がよく働くいい馬がいて、俺の娘をやろうかというと、馬がその気になって、娘もしょうがないかなと、そうすると長者がとんでもないといって馬を殺しちゃう。皮を剥いで、なめして、干しておく。
娘が来ると、皮がふわっと飛んできて、その娘を包んでしまう。巻いたなめしの皮、白っぽい皮で、娘を巻いて、娘は自分の父親に対する恩返しをしなくちゃいけないという気持ちもあって、巻いた形が蚕になって、糸をなして、という話なんです。
これを男と女の人形を出して、やるんですね。目の見えないイタコがやる。この手遣いの芝居は未だにある。この流れを考えていくと馬文化に繋がるんですが。
だから、たぶんイタコっていうのは、流れ巫女、流れ婦女なんですね。流れていく間にそういった話を作り上げていって、最終的に、最北端の、今では岩手、青森といったところに、「瞽女(ごぜ)」というのがあって、そういうところに流れて行って、盲目者は、日本では恐ろしがられていましたからね。
見えないというのが見えるという。見えるより恐ろしいと。