相撲人形やオシラ様からすると糸操りより手遣いが先だと
それは手遣いですね。人形っていうのは、木で作られてますから、土ではこねられていない。なぜかと言うと、芸能の下になっているは「松囃子」ですから。古くは、「松拍子(松拍)」、これでマツバヤシと読ませます。今は囃と書いてますが。
日本の場合、古木とか高い木とかは、神聖なものは木に神が宿るんです。神というは人間を祝福してくれる。その神を呼びださなければならない、それを「囃す」と言うんですね。囃し呼びだす。
それで「松囃子」をやる。山から松を切ってきて、それを担いで、街に来るわけですよ。
松を切って、ある広場でやるとか、松を立てるわけですよ。それで人が集まってくる。松に対して囃すんですね。そうすると、そこから神が囃されて降りてくる。その松が、能楽の「三番叟(さんばそう)」の始まりだと。
で、人形の以前の話だけど、松を担いで運んでくる人を「神人(じにん、じんにん)」というわけです。これは最下級の宗教家です。こういう人たちはいつも神様の雑用をやっているのかな、たいして給料ももらえないし、節目節目に、山から里へ下りてきて、布をもらったり、野菜や米を貰ったり、そういうお布施を持ち帰って生活をしていた。
そこから三番叟が始まっているという話なんです。折口信夫さんなんかが言っているのは、あの人は文章を書かない人ですから、考えてご覧なさいと(笑)。
だから神能ですね。松羽目があって、面を付けさせてやるじゃないか、ということは、そこで変身していくじゃないかと。人には見えないんだよ、神っていうのは。だから人の目には見えないじゃないかと。その時代、霊能の世界では神は目に見えない。
しかし、「神楽」というのは古く読むと神遊びで、だから神が楽しむわけですよ。神である自分たちが踊っちゃうわけですよ。
神が歓待されて、権力者として崇められて、酒を飲み、飯を食い、そして楽しく自分が遊ぶ。それが「神楽」の始まり。それがどっかで芸能化されていくと、一つの神の振る舞いを真似していくということになる。
人が神の振る舞いを真似る
そこが面白いと思うのは、能が面を付けてくるでしょ。三人の年寄りの三番叟が大きなオモテ面を付けてくる。そこで考えさせられたのは、ほんとは能が、神に化けるとか、神になり切る時というときには、自分を隠さなければならない。己をね。
外国だと面が大きい。自分が隠れるとき、隠すときは、面が大きいですよね。隠しちゃう。すっぽりと被っちゃう。そしてそれになる。自己を消すわけですね。そして、その者になろうとする。
ところが、能の場合は、面が小さいんですよ。だから能役者は皮膚が見えるんですよ。その辺が能のすごさだと思う。絶対に神にはなれないことを分かっている。
如何にも神をやっていますよというように、見せる。私は人間が身代わりになってやっているんだよ、というような。自分を見せちゃう。
そこには、今の訳者、人形遣いもそうかもは分からないが、役になり切っちゃうとか、そういったおこがましいところがないわけです。絶対になれないよと。その者には、なれないよと。
だから、如何に演じるかと。今の訳者さんは、役になりきるとか、直ぐ言うでしょう。なり切りますかとか、言いますでしょ。でも、そんな馬鹿なことはできないよと。その者になるなんてできないよと。やっぱり、芸能の一番古い哲学かな。
なり切るというのは誤りであり錯覚だと
成り切るということはリアリティの追求にはならない、ということです。
あくまでも「実」でやっていったならば、自分以外のものにはなれない。他者にはなれない。
そうすると、他者を演じると言うのは、「虚」でしょ。だから「虚」の中で、如何に一つの「実」を求める、作りだすことができるかというのが日本の芸能なんで、そこに神を表現しようとしたところから、神になろとした時に、偉大な神になることはとても私にはなれませんと。
だから「虚」から出ちゃう。それが後半になると、江戸辺りになると、「実」が出てくるんですね。「実」というのは、たとえば人情とか、人情っていうのは、すごく人間らしいのですが、勿論、能にも入ってきていますが、そういうのを如実にやったのが近松だとか、歌舞伎とかですね。
つまり、歌舞伎は「実」に入っているわけで、近松も「実」に入っている。そういう人は、社会、年代的な世代なんですね。
そうなると糸操り人形との結びつきは
そうでした、そこに持っていかないといけない。(笑)
人形というのは、如何に直に手で扱ったのか、神木を打ち振るうのとおんなじで、それが人形に変化していって。
だから単なるそういう宗教的な、信仰的なものがないと、木をただ削り込んで、ヒト形にしていくというだけでは、人形芝居は生まれてこないんじゃないかと。
手遣いであれ、糸操りにしろ、神と密接につながっていた
人形は、相撲人形もそう、たぶん檜の木を使った。オシラ様は桑の木を使う。
最初は、オシラ様は棒の先が出ているだけだったり、そのうち女の顔にしたり、馬の頭を遣ったり、あるときにはコケシの形になったり、だんだん今の人形芝居に近づいてくるわけですが。
だから、最初は顔も何もない、桑の木の棒に布を巻き付けただけでやっていく。それは、この木が神であるという。
そのうちに人形というものを人形として扱うようになってくる。つまり、江戸期になってくると、宗教としてではなく、そういうふうになる。
すると、もう人形芝居と考えてくると、うんと人形が動くか、または人形がそのまま訴えていくか。そうなると、まず、文楽みたいに三人遣いになるか、または糸操りみたいに、人形遣いが見えなくなるかというようになる。
手で遣うことと糸で操ることの技術的な違いは
それは技術的とかいうものではなくてね、これは一つの「今」論的な話になるんだけれど、「今」という時代ではなくて、「今」というものをどう捉えていくかなっていうことになるんですね。
だから、自分が何かをやろうとする、でもそこからものが始まってくるんですが、やろうとすると、そういう人には時間ずれがありますね。人間って、思考と行為の間に、時間的なずれがあるんです。
この時間ずれをいちばん表現できるのが、芸能のなかで、糸操りなんです。
その人の時間ずれのなかで、何を感じ、何を考えることができるか、というのが、僕は糸操りだと思います。
それは、時間ずれのなかで発見できる。だから、仮に、時間空間が糸だとすれば、ある一つの行為、思考を始めると、引っ張られるまでの時間ずれができる。
つまり、糸が時間。その糸の中に、どうやって、人形遣いは、ものを感じ、考えることができるんだ、ということだと思いますね。
糸を扱うことで時間を作りだせると
時間というものが、糸操りの生命みたいなもの、つまり、人形遣いにとっての攻め糸は、その時間を見せられるか、ということだと僕は思う。
じゃなかったら、直接遣っている文楽にはかなわない、動きとしては。
すごい不自由なんですよ、糸操りというのは。
だって、こう動かそうと思っても動かないじゃないですか。
そこには、ある意味では、時間ずれの困った問題が出てくるわけですよ。
たとえば、こうと動かそうと思ったときに、持ってればこう動かせるけれど、「はい」って渡せるけれど、これを渡そうとした時に糸を持っていないと渡せない。
糸をこう持って、糸で引っ張られて、それからそっちへ持っていく。そのずれみたいなものがある。
でも、そのずれが、ひとつの表現に変わっていく。
人形遣いによって時間のずれが違うということになりますか
これは僕の考えだけれど、他の人形遣いの方が時間ずれと考えているかは分かりません。
でも、特殊なある時間空間をもってると、その空間に観客は入り込むことができる。また引きずり込むことができる。
じゃあ、その一つの人形の演技で持って、いかに観客を引きずり込むかとかは、引きずり回すとか、入り込んでもらうかとか、と考えていくと、それ何、っていうことでしょ。
いくら巧いったって、いくら動くったって、面白いとは思うだろうけど、でものめり込んではくれない。それは、やはり自分が違った一つの時間を持っている、空間を持っている、だから、そこへは入り込んでみたいとか、というものがあるんじゃないか。
それが、僕は、昔の人がいう「芸」かなあ、と。よく「芸」と言うじゃないですか。
芸とはどのようなものでしょう
芸っていうのは、わかんないですよね。
どういうのが芸って。無芸でも芸でしょ。文芸も芸でしょ。
でも、芸っていうのは、昔の言葉ですけど、でも江戸時代になってくると、芸って言葉は、あまり良くないんですよ(笑)。
芸って、どこから来たかっていうと、中国の言葉なんですけどね、やはり。「芸能」なんてと言うと、わかんない言葉の一つなんです。芸って、やはり差別用語なんです。
群馬県の御寺なんかに行くと、禅宗かな、芸は入ってはならないみたいな。
そういう人は、だいたい遊芸的な、乞食芸みたいな言葉らしいんですね。
で、それがあまり使われなくなって、それで明治になると、「芸術」なんてね、言葉を勝手に作っちゃうわけだけど。
だからそういう人の不可解な言葉で、だれが芸とか、それがわかんなくて。でも、ある人と全然違った世界。その世界っていう、驚きの世界があるんじゃないかな。
芸っていうのは絶対的に生きてきていると思うんですね。観客も生きているし。何より、期待はずれなことをやらないといけない。期待はずれって、言葉をひっくり返した訳ですが、仮に、あの人はこういうことを見せてくれるとかね。あいつの芸には、期待してくるじゃないですか。
ところがそうじゃなくて、あなたが考えているようなもの以外にもう一つ、こういうものがあるよ、とかね。そうなると驚くじゃないですか。それが芸なんだと。
だから、芸って生きてるもんだと。
新しいことの積み重ねじゃないんだと、いうことですね。