別冊トランスアーツ|ロングインタビュー「春夏秋冬」人形遣い田中純の世界

































時代が下がって説経節の出てきます

説経節に繋がって、糸操りが出てくるという説はちょっといい加減なように思えるけど、説経というのは、やはり説経師というのがいて、唱導師みたいなのがいて、そういう人たちが説経したんですね。それが説経法師の始まりですね。

最初、説経するのは坊主で、しかも美男子がいいってね。美男子で、いい声の説経法師が方が説得力があるということで。そこに、ある種芸能的な要素が生まれてきていますよね。

そして次に、今度はそうじゃなくて、面白可笑しく、砕けたことを言える、あるいは有名な人や偉い人が、年取ってね、声がすごくいいわけじゃないんだけれども、言うことがとても面白い、つながって一つの例え話をしたらものすごく面白くて良かったらしい。

そうすると、「分からせるための芸」が一つの芸能になっていく。そこから、ある意味、「門説経」というものを訊き始めるわけですね、一般の人が。

最初の説経節の人たちは、お寺なんかに集まってきて、語るわけです。だから、ちゃんとした坊主ですよね。それを聴いたりなんかしていたのが、破壊坊主みたいな人で破門されたような人。

そうすると、傘一本渡されて追い出されるわけですよ。そして「辻説経」始めるわけですよ、道でね。それが説経節の始まりなんですよね。

傘を立てて、「ささら」を鳴らして説経するわけです。あるときには扇子を持って叩いて、やるわけですよね。傘の中はお前さんの世界だよ、ということでね。

だから、傘を立てて、そこで説経するわけです。
傘をさす、というのは、定住できない、っていうことですが、お前さんの世界だよって。それを背負って、旅をして、辻辻で、人が集まるから、そこで説経をやるわけですよ。

それがだんだん歩いて行くうちに、いろんな話を聞いていくわけです。そうすると、一つの同じような話が土地土地で変わっていく。そういうのを聴いていると、口にして、一つの作品にしていっちゃう。



後に説経浄瑠璃と呼ばれるようになります

昔、「古説経」と言われていたのが、江戸の頃になると説経節とは言うけれど説経浄瑠璃になってくる。

本当の説経節というのは、これから語り申す、云々とかね、善光寺なら善光寺の由来みたいな話をするわけですね。「本地物(ほんちもん)」って言うんですね。これが説経の最初なんです。だから、仏とか、偉い坊主に助けられるとか、そういう話が必ず宗教に結びついている。

ところが、後には凄い残酷になってくるわけです。だって、自分の親がめくらになっちゃったとか、あるいは自分の姉さんが身代わりになって死んじゃったりとか。

それに対する報復とか。それこそ山椒大夫を捕まえて、生き埋めにして、首だけ出させておいて、そしてその山椒大夫の息子に筍切りを持たせて、それで首を引かせちゃうんですからね。全然宗教的でない。

また、荘園の農民の奴隷との関係みたいなものが、土地土地によって、もの凄くえげつない。でも、それをどんどん取り入れていった。だから歩かないと分からないわけです。

たとえば岩手から出て行って、天王寺に行って、そこからまた岩手に帰っていく、というように。つまり、一つの流れを捉えられない。

だから、非常にリアリティがあって、でも、そういうものをどうやって人形芝居にするのかっていうのは考えるわけですけど。

僕は手遣いの方ができるが、文楽の方ができない。だから、突っ込みとか、そういう原始的な人形ができて、

糸操りとその説経節というのが説経浄瑠璃と結びつくので、一番言われているのが、「信太妻(しのだづま)」ですが、これは阿部清明の話なんですね。でも、これはあまり移動していないのですけれど。

どんな人々が説経節を楽しんだのでしょう

ある意味、底辺のものでしたね。
芸能って、もともと底辺のものなんですけど。

宗教的な底辺の者たちが築き上げていったみたいな、だから、一般の人との結びつきが強い。

高等宗教家たちとは違って、偉そうなことを言うのではなくて、実生活に入り込んでいて、実生活を見て、そこからものを作っていくということがあったんだと思う。

殊に説経節というのは、説経から出ているから、他方、人形芝居も「実」じゃないところから始まってきた、いわゆる「虚」ですから、どうしたって人間になれるわけはない。

人間を表現しないといけないわけだし、そういう一つの、息もできない、無機物ですからね。

なぜ糸操りが説経節と結びついたのでしょう

説経節といっしょにやられていた、という文献は一つもないんですね。僕の知っている限りは。説経節がやられていたとか、人形をやっていたというのはあるけれど。

でも、「信太妻」の中で阿倍保名(阿倍清明の父)が殺されるわけです、芦屋道満に。それでバラバラにされちゃう、体を。バラバラに千切られ、それを烏だとか、野犬だとか、そんなのがあちこちつついて、食い散らかしていっちゃう。

すると、それを阿部清明がひとつ祈って、蘇生の術を施すわけですね。そうすると、それが、ばあーっとくっついてくるんですね。逆に鳥が持ってきたり、犬がくわえて持ってきたり、すーッと元の体に戻るっていう話ですね。

そこで、ではどうやって演出したのかなって。そうすると人形芝居に、「骨寄せ」っていう手法があるんです。これは糸で、骸骨がバラバラになって、またくっつくという、また同じように踊りを踊るとかいうのがある。つまりこの骨寄せの手法なんだと。

とすると、阿倍保名の蘇生はじつは手遣いじゃ難しいぞ、その辺が糸操りじゃないかというような説があるんですね。つまり説経節で糸操りによってやられたっていう説が。

まあ、いずれにしても、説経節の文献で残っているものにも「突っ込み人形」でやってたという記事はあるんですが、つまり下から高幕でやっていたと。

でも糸操りでやられていたという記事はないんですね。


初代孫三郎が説経節に糸操りを採り入れたという文献は。

いや、糸操りのことは出ていない。
ただ、元和3年のときには、中橋でやられていたと。その時分、糸操りがあった。

初代孫三郎が櫓を挙げたのが寛永12年(1635年)。だから、糸操りはその時に何らかの形でやられていたわけでしょう。それで説経浄瑠璃座を作った時に、それを採り入れたんじゃないかと考えられるわけですね。

ただ説経語りですから、それも興行師的なところが強いわけで、ある意味、説経節の元祖だなんて言われていますがね、それだけの名人だったんだとは思いますが。

でも、やはり、その時代から見ると、どちらかと言えば、なんというか芸術家というより、商才に長けているというかね(笑)。

だから、ぱっと、説経節を捨てることもできたし、で直ぐに、義太夫を引っ張りこんでやっちゃうみたいな。

先見の明があったと

だから、やり手だなと。(笑)








突っ込み人形

人形の裾(すそ)から手を突っ込み、胴串(首を支える棒)を握って遣う基本的操法。高い手すりの陰で遣うため「陰遣い」といい、人形遣いの姿は見えない。

本地物

神仏が前生に人間界に生をうけ、人間と同じ苦難を経て衆生を救済する神仏となる物語。