別冊トランスアーツ|ロングインタビュー「春夏秋冬」人形遣い田中純の世界





























ある時期テレビ文化を否定されたことがありますね。
初代両川亭船遊、すなわち曾祖父の田中喜兵衛さんは、写し絵というものを発明したわけですが、これは、現在の映像文化と似て非なるものです。写し絵は現代の技術過剰の映像文化への問いかけとして捉えることもできそうですね。

現場にいたわけじゃないし、見ていないので、何とも言えないんですが、確実には分かりません。

何と言ったらいいのか、どうやったら、表現とかの問題よりも、ひとつのリアルなものに近付けるか、というのが、当時あったと思う。ある意味、映画とか出てきたときの映像の1つの流れだと思うんです。

写し絵は、確実にひとコマひとコマしか表現できない、写しだすことができない。
タネ板というものがあって、木枠の中にはめ込まれているんですが、5枚ぐらいが使える限度だと思うんですね。

そうすると、人物から考えていくと、5つのポーズしかない。その5つのポーズをいかに組み合わせて、伝えるということになる。そうなると、途中の流れっていうのはないわけですね。

そのポーズからポーズの動き、間というものをどういうふうに自分として捉えていくか。捉えたものを如何に見ている人に伝えていくか、ということだとおもうんです。

ただ、内容的には、江戸末期から明治の時代ですから、そんなに、そもそも思想的なものではなくて、いかに娯楽的にやるか、というふうにかんがえるわけですね。

ただ、娯楽的なものを写しだしたとしても、やはり写しだす姿勢というようなものは必ずあったと思うんですね。その姿勢が、ひとつの空白というものを一人一人がどうやって埋めていくか。そこで広げていくか。いかに空間とか、時間というものを広げていくか、ということが、僕は問題だと思うんですね。それは技術かもしれないし、表現、思想と言えるかもしれない。

芸術的なものとか、思想的なものと捉えないで、自分たちが生きていく時代の中で、空白の時間というものを作り上げていった、というのは、ちょっと面白いなあと思いましたね。



祖父9代目孫三郎は、明治から大正にかけて活躍し「八丁荒らし」とも、操り人形芝居の歴史上、革命児とも呼ばれています。
彼の芸について、どう捉えていますか。

これも、確実に見たっていうのは、1回か、2回しかないわけです。また、僕が見たというのも、彼が年取って、大分衰えてきている時分で、戦争中ぐらいですかね、だから、それを見て、芸術的にとか、表現的にすごいなとは思えないんですね。

ただ、あの人の凄さと思えるところは、人形を遣ってきた、いろんな工夫をしたっていうのは、やはり、人形芝居で生きていこうとしたところじゃないかなと思いますね。

話が元に戻るかもしれませんが、田中喜兵衛さんがやっていた写し絵というものは、これはあくまでも生きていくためというよりも、はじめは道楽みたいな形だったと思うんですね。

僕もあまりよく覚えてないんだけど、佐竹藩のお抱えの仕立て屋だったらしく、そういうところから、ある程度、普通の仕立て屋さんよりはいくらか裕福だったんじゃないかと思うんですよね。だから道楽に走れたというのかな。それで道楽の中で、そういうものを作っていった。

9代目結城孫三郎は、そうじゃなくて、いかに人形で生きていこうかなというのがまずあった。そのために生き様みたいなものが人形芝居に現れてきた。

だから他の人よりももっともっと人形というものを動くようにしたいとか、不便ななかで表現を拡げていきたいという思いが強かったと思うんですね。

ですから、そういう意味では、遊びではない、ある意味、生きていくことがすなわち人形芝居であった、で、人形芝居は生きていくことだと。

そういうつながりがあったと思いますので、そこに、他の人形芝居がなくなっていって、そして、9代目が生き残っていったというようなことにつながるのかなあと。

ですから、これも芸術とかいう一つの言葉ではなくって、いかに自分のやっていることを、見て納得してもらうか、そして、より他の人形遣いと違った面を出していくかということだと思うんですよね。

明治に入ってに人形遣いは多数いましたが、昭和初期には結城座以外消滅して行きます。
田中純さんの芝居や芸において、「中興の祖」とまで呼ばれた9代目の遺産みたいなものはありますか。

あまりないですね。いかにその時代、時代に生きた、ということであって、彼は精一杯、その中で、やっていけることをやっていった。

あるときには、昔は芸人は皆、田舎を回っていたのですが、その田舎回りで、それこそ人形芝居に(御客が)入らないときには、自分たちで芝居やっちゃったとか、あるときには手品みたいなこともやって一晩、人形芝居を中心として、自分たちでやりながら、ひとつの一興行を成立させていった。

だから、彼が何のために人形を使ったのか、というのは、どうしても生活っていうのかな、生きるということに繋がっていっちゃうんで、そこからはなかなか自分としては、引っ張りだせないものがありますね。

娯楽と生き様としての生きるための芝居の迫力の違いだと。

それはあるでしょうね。

明治の時代でもそうでしょうし、江戸時代でもそうでしょうけど、そういう芸人ていうのは、ほんとに優遇された人種ではないから、たかが芸人ですから、それこそ瓦乞食と言われた時代ですから、そのなかで、いかに自分が生きてくかとか、生きていくっていうことから、いろいろやることを考えていった。

自分が科白を言って、人形芝居をやるっていうのも、やはり、そのひとつの時代の中で、浄瑠璃を聞ける人が少なくなっていった。そうすると、浄瑠璃で自分たちが浄瑠璃のなかで、一つの表現を発見しながら、伝えていくよりも、もっともっとストレートに、自分が今生きている、自分が喋っていく、それでいいものを置いていく、というところが、あの人にとっては、いいんじゃないかと感じたんじゃないでしょうかねえ。



9代目と10代目の型には違いがあると言っていますね。
では、11代目の田中純さんが、10代目孫三郎から影響を受けたり、授かったものとはありますか。

特段ありませんが、人形遣いとしては優秀な面がありましたから、人形の遣い方とかについては影響を受けたことはある部分あります。

彼は、その時代で、なんとかして、一つの、時代とか、表現とかを考えていく芸術家に近づきたいという願望があったんじゃないですかね。その場合、人形というものをどういうふうに使うかとか、どういうふうに人形で表現していくか、というところを極めていったので、「何を」というようなところには、あまり考えがいかなかったと思います。

ですから、そこにいつも協力者が必要だった。たとえば、その時代、邦楽なんかでも、一生懸命新しい邦楽を作ろうとしている人たちといっしょにやる共同作業だった。

共同作業ってことは、こういうことをひとつやりたいというなかでの、あるときは共同作業の協力者であった。そういう人たちの考えを聞きながら、やっていったということなんですよね。


何を表現するかという点では田中純さんとは違うと。

やっぱり、明治生まれの人ですから。どうしても、何ゆえにとか、問題を抱えるのではなく、如何に一つのいい人形芝居をつくろうかと、いうことですから。

テーマが違う。

違うんです。でも、これも時代だと思いますよ。それこそ、親父の時代で言えば、他のジャンルの人は、築地系の新劇の人とか、それなりに芝居の目的というのがありましたから。

しかし、自分の芸の中で、ひとつの今の時代が芸術家を求めるものがあるとすれば、その求めたものをやっていきたい。やりたい。やっていかないと自分が遅れていってしまうじゃないかという気はあったんだと思います。それだけ人形を使う技術はもっていたから


技術は完成されたものがあった。

そうですね、これも、いろいろ問題があったんだけどもね、質としてね。

9代目の場合は、人形遣いとしていかに生きていくか、他の人形芝居とか、芝居とか、ひとつの対立関係として見ていた。そのなかで、どうやったら、人に、自分たちの芝居を伝えていくことができるか。

そうすると、人形が、昔はちょっと大きかったらしいんですが、大きいと動きが悪くなるから、それを心持ち小さくするとか。それから、自分で科白を言ったり、もっと観客に分からせるために、新聞小説をやってみたりとか。

その時代で存在性というのかな、それを訴えることがどうやったらできるんだろうと。だから、それに即した芸になっていくわけです。

だから、9代目の場合は、いつも、自分の相手というのは、人形芝居じゃなかったわけですよ。そういうふうにして人形を遣ってきた、で、生活の中に、生活というのを背負いながら、そういう意味でひとつの迫力という芸があったんだと思う。

そうすると、親父の場合は、息子として生まれていた僕の親父は、それに沿ったものをやっていくと、どうしても9代目に適わないってことがあったと思うんですよ。

9代目を超えた時は何だろう。9代目よりもっと人形を動かしたい。動かすということは、糸を遣うということが早くなくちゃいけない。だから糸遣いというのを爺さんに負けないような速さにしたいと。これは一生懸命やったらしいですね。

糸遣いを早くするとか、これによって人形の崩れをなくしていくとか、それでも人形は崩れないとかいうふうになると、やはり技術的には、よくなってきますよね。

芸術家というものから離れ、父と子の関係についてどう思われますか。

それもあまりないなあ。役者として見ていたしね。そのなかで、親父の、それこそ時代が悪かったしね。不景気だったし。

彼自身が苦労しているし、精神的に不安定だったしね。そういう面で大変だなあと思ったことはありましたけど。



訳者としての母をどう思いますか。

いろいろ問題があったと思いますね。その年代の女義太夫の、昔は娘義太夫といったんだけれど、その人たちのお袋の年代というのは、たいしたことないと思います。

ところが、その年代の中で、ほんとに義太夫をやっていく人、仮に、文楽の何人かの大夫とか、三味線弾きとか、やっぱり、それなりに凄く、もしかするとそれ以上の一つの迫力があると思います。

ですから、お袋が凄いということでなくて、なんとか語っていくとかなると、ひとつの意思力とか、そういうものがないといけないし。絶対的にそれは特殊なことではないし、当たり前のことだし。

そこで、お袋の義太夫はどうなのか、ということになると、僕は駄目だと思います。それは何だというと、それは義太夫としてではない。語りモノではない。それは、あの人だけを考えてるわけではなくて、江戸の娘義太夫というひとつの在り方が、やはり自分の声を聞かせたり、ある意味では、その時代、その人たちの顔が可愛かったりとか、綺麗だったとか、とかいうことで学生が追っかけまわしていた時代であるわけですけれど、でも、そういうところで、どっかで女を売っている。お袋がそうだということではありませんが。

語り口を聞いてると、語るのではなくて、どうしても歌う部分が多くなる。で、語るということは、ひとつの義太夫語りが語るとすれば、あらゆる、そこの人物を語らなくちゃならないわけです。基本的には。いろいろ何人もでて、いろんな役をやるのもありますけれど、これは邪毒でして、一人で何役もやって、一つの物語を観客に伝えていくってのが義太夫です。

そうすると、一つの役とか、そういうところに、自分を感情移入し過ぎちゃったり、何かすると、語って聴かせるという、語るというところが、語る人間、その大夫という存在がどこかで崩れていってしますね。

客観性が必要だということでしょうか。

全体的なひとつのストーリーとして、語るんであるならば、全体的に主人公の、Aというひとつの役があって、その心情にくっつき回ってたんでは、語りにならない。

でも、これは、ある意味で、あの人が育ってきた娘義太夫っていうひとつの流れの中でしょうがないだろう。そのなかでは、その限りでは、よく語ってるなとは思います。