別冊トランスアーツ|ロングインタビュー「春夏秋冬」人形遣い田中純の世界



















初舞台について覚えていますか

あまりはっきりと覚えていないんですけどね。ちっちゃいときですから。

聞いところによると、日本橋倶楽部というところで、昔風に言うと、数えで6歳ですか。親父としては、初舞台を踏ませたいというような気持があったんだと思います。その辺の、なぜかというのは、それは分からないですけどね。

人形遣いにしたいのか、どの道を勝手に歩かせたいのか、その辺は分かりませんけれど。

ただ、自分が人形遣いでしたから、一応、その流れとして、初舞台を踏むというのは、ある意味、儀式みたいなものでしょうかね。



元服みたいなものでしょうか

ええ(笑)。

初舞台で何やったかというと、獅子舞の人形ですね。親父が親獅子やって、そして、僕が子獅子やって、親子獅子という形で、やったわけですね。

そこで、どんな稽古をされたのかはやはり覚えてないですね。数えで6歳、実際に満で4歳ですからね。

体も小っちゃいし、足場というところに、足場と言っても、立ち足場というんですけれど、尺八寸ぐらいの台の上に乗っかって、幕の裏から遣ったと思うんですよね。

だから、足りなかったと思うんで、もうちょっと、もう一つ小っちゃ低い台を足して高くしてやった気がするんですよね。定かではないけれど。何かそんな気がしますね。
それで、芝居はうまくいったのかも、どうなのか分かりませんけれど。

稽古はとても厳しかったようですね

僕は、親父の稽古が厳しいとも何とも全然覚えていないんですよね。

ただ、周りから見てたのが、親父が9代目から飛び出しましてね、そして、大久保に住んで、そこで、稽古してたらしいんですよね。うちを飛び出したわけですから、僕の母方の爺さんのうちに、居候みたいにして、2階に住んでたわけです。

そこで、どうやら稽古をしたようですけれど、周りから見ると大変厳しく見えたらしいですよね。見ていた母方の爺さんが、親父の前に手をついて、もうやめてほしいみたいなことを言ってたらしいようなことを、後から聴きましたけれどね。

よく人形遣いっていうのは、蹴飛ばすって言われるんですけれど、これは、人形遣ってますから、両手が塞がっていますから、いろいろ手でもって小突いたりできないわけで、足でもって蹴飛ばすみたいなところがあるんです。

言葉で言うと、蹴飛ばされながらとか言うと、非常に何か、ずいぶんひどいことやるなと、みなさん、思われたかもしれないけれど、大したことないんですよ。僕らにとっては、手が使えないんだから、足でもってやるのは当たり前で。手が空いてれば、手で小突かれたりひっぱたかれたりしてたかもしれませんものね(笑)。


結城座の歴史を考えると、その舞台に立つというのは、かなりの重責のように思われます。「初舞台」というのは、役者にとって何か特別な意味はあるのでしょうか初舞台に特別な意味はありましたか

それは4歳ですからね、そんな意識はないですね。親父の中の流れの中で、そういう一つの形が生み出された、作られたわけですから、僕の方で、どう受け止めたかは、ないですね。

ただ、こう人形を渡されて、これをどう遣うかと、うまく遣うというところまでいかないけれど、それが、将来的に、今、流れとして、それがルーツとして自分の中に残ったか、ということになると、ちょっとそれは、ないかなあ。

物心が付いた頃から、生涯一役者として進むだろうと言う運命的な予感、あるいは決意のようなものはあったのでしょうか

その時分は、ないですね。

そういった役者としての意識が芽生えてきた頃というのは、いつの頃でしょうか

やはり、中学生の中ごろ、2年生ぐらいでしょうね。

何となく、やっぱり、一応、こういろんなことを感じやすい年齢、多感な年代ですから、そうすると、舞台に立ったり、お客の前で何かをやったりということに対して、いろいろと自分が抵抗を感じたりするっていうことはあったわけですね。