別冊トランスアーツ|ロングインタビュー「春夏秋冬」人形遣い田中純の世界























江戸糸あやつり人形+能+現代演劇
ギリシャ悲劇「バッカイ」

構成演出
  岡本章
出演
  田中純
  櫻間金記(能楽)
  笛田宇一郎(現代演劇)
  美加理(現代演劇)
  結城一糸(江戸糸あやつり人形座)
  結城民子(江戸糸あやつり人形座)




「幻灯記KUKAI」から4年が経過、その後、約1年の稽古期間を経て完成したという江戸糸あやつり人形座による新作が本公演「バッカイ」。

各界のアーチストを迎え入れ、新たな演劇言語、舞台美術の可能性を探る。
戯曲の言葉の再現や説明を拒む、新領域が拓かれる。




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操り人形が能と現代演劇を交えた実験劇、それぞれ独立排除的に、だが、構成の精緻な舞台がクロスオーバーする。

融合劇の物語は設定を借りただけに近く、濃厚な語りと動作で、黒い空気が生まれていく。演出はしたたかで冒険しすぎない。よく練られている。

観客の眼が、闇と静謐と、動と光の中に、漂う。
そこを、田中純の糸が泳ぐ。




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翻訳を見比べて面白いのは、訳者によって台詞割りそのものが違う。元来ギリシャ悲劇は俳優がひとりだったから、台詞割りはあてにならないものらしい。

初期のギリシャ悲劇は、ストーリーを伝える合唱がメインだ。
俳優はひとり、舞台奥の書き割りの前で、仮面を変え挿話を演じてみせた。
それがアイスキュロスやソフォクレスが、2人の対話や、3人の場面を書いた、という。いずれにしても、原典に集団場面はない。

紀元前4世紀、エウリピデスが書いたものは残っていない。
14世紀の写本があるが、それが現在に伝わる『バッカイ』の底本とされている。
『バッカイ』は現存するギリシャ悲劇のなかでも、原典に近いテキストが残っている部類らしいが、欠損箇所や、後世の人が書き加えたらしいところも随所に見られる、という。

失われた台詞の穴埋めは、『バッカイ』からの引用箇所があるほかの作品、たとえば12世紀ごろの『キリストの受難』などを見、そこから想像した。
そもそも『バッカイ』は、テキスト自体に、現代演劇の緻密さがあるとは言えない。構成も戯曲としても未完成である。

エウリピデスは、アイスキュロス、ソフォクレスらとともに、世界最古の文学者であり、ギリシャ悲劇三大詩人と言われる詩人。だから、現代の詩人は新たに「言葉」を作り出さねばならない。




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エウリピデス晩年の傑作、ギリシャ悲劇『バッカイ』。
そこではディオニュソスとペンテウスの対立の中に、神/人間、宗教/政治、自然/文化、狂気/正気などの様々な対立軸が緊張感を持って浮かび上がり、根源的かつアクチュアルな問いかけが真正面から行われたという。

今回の『バッカイ』アガウェ篇の上演は、伝統芸を継承する江戸糸あやつり人形座が中心となり、糸あやつり人形、能、現代演劇、現代詩、現代音楽、など多様なジャンルの意欲的な人々のラディカルな共同作業として挑戦され、新たな演劇表現の可能性、そしてギリシャ悲劇の持つ根源性と現在性、さらには古典と現代の重要な課題が追求されています。

そのため同時に日本の古典演目『茨木』も上演され、対比することによって根底の課題がより鮮明に浮き彫りにされるはずです。また討議『古典と現代』では、演出担当の本学教授岡本章の司会により、糸あやつり人形の田中純(先代結城孫三郎)、能シテ方櫻間金記、詩人高柳誠、俳優笛田宇一郎の各氏によって、ギリシャ悲劇の上演による東西の文化交流のあり方、そして古典芸能と現代演劇の接点、切り結びの可能性などが活発に論じられます。




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人形と人間の共演。どう足掻いても不自然になるだろうと予想していたが、そもそも本多劇場にかかるような演劇ではなく、頭でっかちな修辞に塗れたモノローグが飛び交い、ダンス(舞踏?)的な動作によって組み立てられた(前衛?)演劇。

人形がそこに参加していても何等違和感はない。細川俊夫による如何にもそれらしい音楽(尺八っぽい奏法のフルート、ヴァイオリン)とも絶妙にマッチして独特の世界が出来上がる。人形ならではなのはペンテウスの殺戮とその後(首)。