別冊トランスアーツ|「記憶の撮影」人形遣い田中純の世界


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桜が散り始めていますが、桜の思い出は

ありますよ。ちょうどね、腹切ったときでね。桜のときですよ。

ちょうど病院の窓から桜が見えていて、ああ来年は見られるかなと。
桜って、そんな感じでしたね。


現在、早稲田を拠点にされていますね

親類が大学の総務部長をやっていたんですよ。
知ってる連中もいたしですね。

若い時分からひょこひょこ来てましたから馴染みもあって。

河竹繁俊さんが、生きてるときなんか、イプセンかなんか、読んでたんですね。
早稲田小劇場はあまり数は見てないんですけどね。
鈴木忠志とかのやり方は面白いなと思っていたし。同時代だしね。




芭蕉はいかがですか

ひとつの余白ですね。
言い切っちゃわない。言わないで言うみたいな、ね。

こういう一つの簡潔な中で、どれだけものが表現できるか、ということですね。
だから、作家でもそうなんですけど、必ず俳句をやれってね、昔はね。
で、やっぱり、それだけ江戸っていうのは、俳諧が盛んだったんですしね。

俳諧っていうのは、町人であるし、それを操るのは武家ではないし。だから一つの、なんていうのかな、町人が文化的になっていくと、そういうところへ辿り着く。

だから、観客の中にも、そういうたくさん俳句をたしなむようになる。
そうすると、その観客との、どっかで共同体などが持てると。

俳句と人形操りに接点はありますか

「余白」がね、「動かない」ということね。

すごい不自由なんですよね。糸操りっていうのは。
ん、何にもできない。ある意味では。

余白を自分たちがどう作るか。
すると、どう御客が、その余白をどう感じてくれるか。
だから、短歌じゃない、というね。



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