別冊トランスアーツ|「記憶の撮影」人形遣い田中純の世界


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説経節に対する想いというのは

作家がいないってこと。すごい人数が関わって、現場を歩いて、そして見聞きしたっていう、、、。

だから、机の上で書いたんじゃなくて、見て聞いて、あ、これみたいな、それも一人の説経師じゃなくて、何人も何人もの人が。
そういうのは面白いなと。そう思ったんですよね。

だから、近松っていうのは、文学的には優れてるし、脚本家としても優れているし。

でも、それをどうやるか、どういうふうに、その演技をするか、っていうことになってきて、ある意味芸術性はあると思うんですよね。

でも、説経節っていうのは、そうじゃなくて、ほんとにあるときには、聴いてる人間が参加して、で作っていくみたいなところがあるんであって、だから、一つの一般民衆と創作者とが、その関係っていうのが、すごく芝居ってとても大事だと僕は思うんですね。

今の芝居とか、ある意味エリートになっているけれども、なんていうのかな、全然別なんですね。

近松はエリートだった

近松なんかは、それだけ考えているから、考えて書いていくというのかな、如何にそこで作品を表現しようかと。つまり表現になっていくんだと思うんですよね。

ところが、説経節の場合は、表現というよりも、何を伝えていくか、っていう。やっぱり、こう、芸能人っていうのかな。
芸能者は、やっぱり芸術家じゃないというふうに思うんですよね。

だから、何を伝えるか、どう伝えるかっていう問題なんですね。

これは、僕なんかが、戦前、戦中、戦後というふうに生きてきた、その間に、経験して考えたこと、いかに伝えようかなと、つまり、如何に自分が芸術家になろうか、っていうよりも、ほんとに、自分が感じたことをどう伝えていくか。

まあ、語り部とは違うんだけれども、そういうところがあって、僕は、説経節っていうのが好きで、そういうところに惹かれたんですよね。



役者が何を伝えるのかということをかんがえるとき、
田中純さんはいろんなものを伝えられてきましたなかで、
これから何を伝えていこうとしていますか

これからが難しい。

だんだん、その伝えようとしているものが希薄になってきている。
そうすると、嫌だけれど、芸術家っぽくなっていっちゃう。

昔は、こういう芸能者なんていうのは、非生産者だと、何もできない、何も作ることができない、ただ、自分がそういうものを伝えることで、お百姓から食べ物を貰ったり、ん、何の足しにもならない。

だから、何の足しにもならないものが、どういう「足し」をね、観客に与えることができんだろう、とかと考えると、絶対的に、芸能者は、負の存在だから。

なんていうのかな、ものをつくっている訳じゃない。非生産者だし、無形なものだから。自分たちが経験してきたことだとか、考えた事だとか、それをどう伝えていくか。

その伝える一つのテーマは何んなのか、っていうことになって、芝居を続けることができたんですよね、僕はね。

だから、一番最初に、若い時に考えたのは、やっぱり人間ってみんな傷持ってんなあと、どういう人でもね。

でも、戦争っていう問題もそうだけど、でもそこから、みんなそれを癒そうとしちゃう。そこから逃げようとしちゃう。まるっきり保守的な政治家じゃないけども。下手すりゃ、美化しちゃう。でもそんなんでいいのかなと。

だから、人がそういうふうに逃げようとするところを、もう一回、引っ張りこむ、引きずり込んでやろうかなと。だから、傷口をもう一遍、切り開いてやろうと。

それができるのは、何も持っていない、何のものも作れない人間が、一番強い、できるんじゃないかと。

何もない人々は他人の喜びや悲しみを表現できる
逆に豊かな生産者ではないでしょうか

それは精神的な意味ですね。

実際に芝居を作っている人間が、精神的な面を考えないと、何も作れない。精神的なものは生産できるけど、そうじゃないものはできない。

観客もこう見て、あっそうか、とか、いろいろ思うけれど、実際に、仮に時給いくらで働いている人がいるとすれば、その時給っていうものを投げうっちゃって、その部分は何も生産していない。

それで蓄積したおカネをもって、それを見に来る。
それは、非常に非生産的なものが芝居だなと。

だから、この非生産的なところに、何があるんだろうかとみたいなところで、そればっかり追っかけたんですよね。




書かれた本の中に「労働」っていう言葉があって、
対極に「自由の民」というのがありました

自由とは、非常に不自由ですよね。誰かが言っていましたけれど。
自由なんて、自分で考えたこともない。

逆に、自分のテーマを追求していくことになると、労力ばっかり言って、絶対できないことだし、楽っていうのかな、そういうことはできないですからね。

そうするとね、がんじがらめになって、すごい不自由なものの中から芝居は作られていくみたいなね、というような感じなんですよね。

でね、先ほど、非生産者のこと言いましたけどね、芝居は絶対にそうなであってね、だから不自由だからこそ、そこで何かできる、考えていくことができるっていうことがある。自由じゃない、そうするとどっかで誤魔化さなきゃならない。でも、その誤魔化しが、ひとつの作品に繋がってくる。

だから、私は自由なんですよ、なんて言っているのは、ある意味で不自由なんですよね。不自由は不自由なのに、自由ですよなんてね、澄ましてね。分かってない。








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