別冊トランスアーツ|「記憶の撮影」人形遣い田中純の世界


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結城座が300年以上も続いてきたのは、
やはり時代に対する嗅覚が鋭い何かがあったと

そうですねえ。だから、みんな遊びから、遊び心ではじまってきたとは思うけど。芸なんて遊びですからね。

どう遊ぶか、っていう。そこから抜けられなくなったみたいなね、ということじゃないかと思うんですよね。

ただ、ものを作るっていうのは、革新でないと絶対だめなんですよね。革新ていうのは、今あるものに対して、どういう風な姿勢で、今あるものを見てるか、だから、基本的には、批判みたいなものから始まるわけですよね。

そうすると、こんなんでいいのかよ、いやこうだろって、いうのが出てきて、それがある意味では、芝居を進めてくれるし、それから、美術もそうだし、違ったもの、それがまた定着していくと、それを批判していくみたいな。

そういうとこ、たとえばピカソなんかは、今や古典ですけれど、やっぱり出てきたときに、絵画で自分は何を考えていくか、そういったものが確実にあって、単なる写しじゃ仕様がないじゃないか、詰まらないじゃないか、ということになっていくわけですよね。

保守的になると詰まらない

やっぱり詰まんないですよね。今の能でも、まあ、この前、櫻間金記さんとやったわけですけど、能の人たちは、だんだんだんだん家元制になってってね。

また、歌舞伎の連中でも、一門っていう、このなかで作られていっちゃう。
そうすると詰まんないじゃないですかね。

最初は、名前から始まるんだろうけど、こう名前を継いでいくんだろうけど、そういうことじゃなくて、質を、歌舞伎の質ってどうなるんだろうと。

そういうふうに考えないとだめなのに、ただ子供ン時からやってたから、他の人よりも、芸術的な面が身についているからとか、名前を継いでいくんじゃあ仕様がない。

だから、みんな名前なんて止めちゃえって、僕はそう思うんですよね。




孫三郎返上から田中純という芝居をやる一人の芸術家として帰ってきた
それは生き方として素敵だし、それだけではなくて、一個の人間として、
常々新たなものに挑戦していく姿は古典芸という枠ではとらえきれない、
時代の突端的な場所に生きておられるように思います。
だから田中純さんを「古典芸能」というお座成りの枠組みで見てはならないのじゃないかという気がしています

なんて言うのかな、古典ていうことでね、歌舞伎から見たら、江戸時代あたりから繋がっているわけで、でもその古典をやってる人間がね、意味づけちゃったら、どうしようもないんですよね。そこに胡坐を掻くという。

でも実際、たとえば作品ができた時には、絶対一番最先端なものですからね。だから、変わっていくわけですよ。

仮に、「忠臣蔵」がその時代にやられていて、歌舞伎に採り入れられていく。御客は入るんですけれど、でもそれをやっている人間は、芝居を考えていく人間の中に、鶴屋南北みたいなのが出てくると、忠臣蔵の裏を、四谷怪談みたいなロドロしたものでいくような、かたき討ちとか、一つの武家社会とか、そういうものをどう考えていくか、ということになりますよね。

今まで通り、忠義っていうもので書いてきたものでは芝居を書けなくなってきちゃって、そうじゃなくて忠義って何だみたいな。人間が生きるって何だみたいな。

そういうその形で、彼は感じてきたわけで、でもそれはやっぱり、その時の庶民が、江戸の人たちが、みんな諸手を挙げて歓迎したわけですよね。

だから、確実に、こう社会と動くことによって、その社会との間には、その時代には、何かを語らなくちゃいけない、何かを考えなくちゃいけない、ということはたくさんあった。それが「古典」って決められるちゃうと、それはもう、一つの息苦しい、とても生き生きとしたものがなくなっちゃって、だから技術本意になっていっちゃう。

だから、日本ていうのは、殊に、いろんな、一つの歴史的な流れがあって、女型が出たり、で、そこで、和歌集から歌舞伎に入って、そして、現在の歌舞伎になって、そうなると、女型という特殊な一つの役が生まれてくる。

すると彼らは、確実に女ではないということを自覚しているから、いかにも女っていうのを表現しようとする。まあ、女っぽくなっていくのもいますけど。(笑)

でも、実際に、こう女を考えたり、できるわけですよね。全然違うから。

そこで、初めて、歌舞伎を男がやる意味が出てくるんであって、ただ美しいとか、仮に玉三郎はきれいだとか、女っぽくやってったって、それは所詮、嘘もんじゃないか。

嘘の中に、それこそ嘘という「虚」の中に、実があるのかという、実がないとだめだ、ということなんですね。それはずっと昔から、言われてきたことなんですがね。

だから役者としたら面白いと思うんですね、女型は。

ただ、どっかで、その特殊な、精神構造を持ってるのがなっていくんで、女型はね。その辺がちょっと、走れないところかな。

バッカイのアガウェイ役でも女の科白でした

僕は、あんまり、それは考えてやっていない。

ただ、母親とか、どうしても、女の集大成みたいなものだから、そこでどうしても女が生まれてきちゃう。その代わり、女形みたいな細い声を出すわけではなくて。

だから、その点、さっきもお話したけど、能っていうのは、絶対にならない。女のね。

だから、仮に卒都婆小町やってても、女っぽくやってても、生き声ではあってやっている。でもそれは確実に質の高い表現になっているのか、だから女になろうとか、女を表現しようとか、っていうことは、逆にマイナスになってくる。

だから、アガウェイっていうのは、女を表現する必要はなくて、アガウェイを表現していけばいいんであって、考えていけばいい。

所詮アガウェイっていう役は、女なんだから。何もその女っぽくやる必要はない、ということなんですよね。つまり、何で、ここにアガウェイが出てくるんだって、いうことの方が大切なんであって、アガウェイが女である必要は毛頭ないわけです。やってる方としては。

女が、私は女だと、やってる方が私は女だって考えたら負になる。そうじゃなくて、アガウェイっていう一つのものをどう捉えて、どうあそこへ持ち出すか。

だから、動かなくてもいいよって。
あの、僕の人形っていうのは、動かない人形なんですよ。
動くのは難しいんですよ。

動きって何なのかなって考えていくと、やっぱり相対的なものであって、静止がないと動きが生まれてこないわけで、そうすると、もしかすると、その静止のなかにほんとの動きがあるんじゃないかと。

だから、動くっていうよりも、その一つの元の体質的な静止っていうものをいかに作りだすことができるか、そうすると、それが(単なる)動きより、もっともっと動くんじゃないか。動きとして見えるんじゃないか。逆にね。




10代目孫三郎も名人でした

僕と親父との人形の使い方の差があるんです。

うちの親父は動こう動こうとする人なんです。だから、非常に華麗であったし。だから、一瞬止まって、止まった静止状態を形として見せて、その形、見栄みたいなもので、そこから動きに直ぐ移っていく。

僕はそうじゃなくて、動くよりも止まってるっていうのが大事だと。だから動くっていうのは、必然的なものであって意識的なものではないんだと。

逆に動くまい、動くまいとしている間に、どうしても、こう動かなくちゃならないという状況に自分を追い込んでいって、そこから動きが生まれる。だから、止まったところから確実に動きが始まる。

親父の場合は、止まるっていうことは、動きを華麗に見せるための静止であって、一つのポーズになっちゃってるんですね。

でも昔のそういう芸っていうのは、そういうところがあって。
だから動かないと耐えられなくなっちゃう、なんか。

動かないと怖くなる

実際には、死にゃ動かないわけだけれど、でも生きてるってのは動かなきゃなんない。

生きてるってことを、いかに自分が意識しているかってことになるときには、こう、どうしても動きたいっていう意識が生まれてこないと、生きてるっていう証にならなくなる。












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